お水汲んできて~! そして、道すがらいろいろと思う

地域社会研究所 大橋 浩


 夜11時、「お水汲んできて~!」と女房殿が叫ぶ。明日は初釜、我が家の氏神様の「不二の水」がどうしても欲しいと言います。藤森神社まで電車では行こうと思っても、帰りは電車がない時間になってしまいます。少々アルコールが入っているので車でと言うわけにもいかず、仕方なく自転車の籠にポリタンを入れて、押して歩いていく。往復徒歩で2時間弱です。年明けの真冬の寒さは身にしみます。「なんでわたくしめが」と恨めしくとぼとぼ歩きます。
 東福寺境内から南へ山裾の道へ歩いていきます。東福寺も若年の頃とは様相を異にしています。昔は紅葉の頃でも観光客はさほどではなく紅葉の下で軽くいっぱいしながら十分に秋を楽しむ姿もよく見かけたものですが、今はそうはいきません、朝の開門8時前にはもう拝観待ちの長蛇の列が出来上がっています。昼間と言えば、歩くのにも苦労する、四条河原町の繁華街どころではありません。急用で車を出そうとしてもかないません。どうしてもという時にはガードマンさんの協力を得て小さくなって車をだすことになります。帰りは観光客が少なくなる5時ごろまで喫茶店で時間待ち珈琲タイムとなります。お客をもてなしたいという気持ちと住民に与える影響、なかなかむつかしい課題です。

東福寺拝観待ち行列.jpg
写真  東福寺 拝観待ち行列


 20分ほど歩けば伏見稲荷大社、多くの海外からのお客様でにぎわっています。毎日がお正月のような賑わいです。10年前とは大違いです。日本一の観光地とのこと、密に立ち並ぶ鳥居の朱色、入場料無料が人気の理由だそうです。参道入口の大鳥居まえのコンビニは日本一の売上とか。マナーの悪いお方も多いらしく、ポイ捨て芥が多く神社、地元の方々は清掃に頭を悩ましています。日本人のマナーの良さに改めて気づきます。入山制限といったことにならぬよう観光のお客さんにも意識を高めてほしものです。とにもかくにも昔とは大きな違いです。大変な変化です。本当にびっくりです。でもお賽銭はそんなに伸びてないそうです。
 一方、稲荷山の方に目を移しますと、前々年の台風で倒れた倒木があちらこちらに数多く見受けられたのを思い出します。中学生の頃ほぼ60年前、近畿地方に大きな被害を与えた伊勢湾台風、東福寺や稲荷山にも倒木などの被害をもたらしました。東福寺の通天橋を流出させたのもこの台風です。台風の通過時には、強風がガラス戸を押す時にはガラス戸を押し、風が引く時にはガラス戸の桟を引っ張り、懸命にガラス戸が風に壊されないよう守った記憶があります。全くもって華奢な家屋であったものです。恐ろしい夜が明け、外の様子を見に出ますと枝や葉が散乱し倒木もあり様相を一変していました。臥雲橋から川上を見ると何か物足りない、しばらくして通天橋が消滅しているのに気づきました。山はと言えば、杉木などが数多く倒れているのが見受けられました。山道をふさいでいた木々もほどなく除去され、山肌に倒れていた倒木も1年後にはもうなくなっていた記憶があります。3年前の台風による倒木はいまだに横たわっているものや短く裁断され近くに放置されている。地域をケアする力が落ちてきているのを痛感いたします。竹林も維持管理する人がいないのか荒廃しています。おいしいタケノコが出る状態からはほど遠く感じます。
 伏見稲荷大社を横切ると静かな住宅地、この辺りの雰囲気は大きくは変わっていないようです。黄檗宗石峰寺もこの辺りにあります。伊藤若冲の五百羅漢で有名です。心の和む私の好きな寺院の一つでもあります。幼いときにはよく遊びに来たものです。
 名神高速道路の下を横切りしばらく歩くと、目指す藤森神社にやっと到着です。
 藤森神社は閑散としています。小生の幼かりし頃とほぼ変わらない雰囲気で落ち着きます。伏見稲荷大社とは大違いです。普段の夕方にはお水をいただく行列ができていますが、さすがに夜中は誰も列をなしていません。気を遣わず汲むことができます。小生の幼いときには湧いているんやと親父が言っていましたが、今は、地下90メートルからくみ上げられているとのことです。この水は「不二の水」と言われ、「二つとないおいしい水」という意味だそうです。武運長久、学問向上そして勝運を授けてくれる水として信仰されています。女房殿は初釜の時には、「『不二の水』二つとないおいしい水で点てました、武運長久、学問向上そして勝運を願い、おいしくいただいてください」、とでもいうのでしょうか。不二の水 の傍らには、水六訓の立て札があります。1.水は尊し 2.水は美し 3.水は清し 4.水は強し 5.水は恐し 6.水は深し と記されている。水にかかわって仕事をしてきた者としても、肝に命じておかなければならない事項です。身近においしい名水があり気軽にいただくことができる大変恵まれた環境です。

不二の水藤森神社.jpg
写真  不二の水 藤森神社


不二の水謂れ.jpg
写真  不二の水謂れ


水六訓立て札.jpg
写真  水六訓 立て札


 神社にお参りし「不二の水」をいただきました。寒さもありすっかり酔いは冷めてしまいました。あとは自転車で帰るだけです。家近くになり町内のことが思われます。先ほど話に出しました伊勢湾台風の頃は、若い人も多く元気な町内でしたが、今はと言えば見る影もない、超高齢世帯ばかりです。若人は核家族化で転出してしまい、盆・正月、区民運動会、お誕生日など行事に帰ってくるくらいのようです。全くもって世代交代がうまくいっていません。京都市内でありながらこんな状況です。いわんや地方においてをやと思います。人口急増時代に打たれた施策のしっぺ返しのように思うのは小生だけでしょうか。
 「ただいま、不二の水 いただいてきたよ~」 あとはもう一度、あったかくした飲み物を美味しくいただくだけです。
 静かで、澄んだおいしい空気、景観、ちょっと足をのばせばおいしい名水も汲める恵まれた環境を享受し毎日生活していますが、観光の地域に与える影響、山林・竹林の荒廃、地下水位の低下、地域の高齢化・世代交代の問題等々住む環境が急速に変化していることを他人事でなく改めて感じる1時間半でありました。

淀川のほとりで暮らして思う事

大阪学院大学国際学部 三輪信哉

☆1☆
 私事で恐縮である。私は生まれてからこの方、琉球大学にいた20代から30代の10年を除き、淀川左岸沿いの大阪市の赤川という町に住んでいる。
 祖父が大正時代に岐阜の山奥から出てきてこの地に工場を構えて100年が過ぎようとしている。振り返って見れば、私の人生の日常の大半は淀川とともにある、といってもよいかもしれない。
 祖父がこの地に居を定めたのは、当時周辺は水田だらけで、淀川の支流の小川がそこここにあり、土地が安く、水を利用した工場を営むためであった。戦前は南方で使う蚊帳の生地の晒し業で大いに成功したようである。戦後も水を利用しての金属メッキに仕事を変え、周辺の小川に廃液を流してもいた。メッキに使う重金属の濃度を味で見る、という今からは想像もつかないありようで、祖父が65歳で食道癌で亡くなったのも無理はない。
 私の幼少の昭和30年代には工場はやめていたが、淀川は私の絶好の遊び場だった。まだ小学校に上がる前、淀川で溺れ掛けてずぶ濡れになって家に帰った記憶がある。台風が来たときには川幅600メートル一杯が濁流と化し、堤防すれすれまで増水し家の屋根が流されてくる様を何度も見た。当然川の水面が家屋の地面よりはるかに高くなり、庭のあちこちからシュウシュウと音を立てて水が吹きだし、上流の氾濫で床下浸水を何度も経験した。そのような濁流もやがて水位を下げると、葦原の根元をぬって透き通った水が流れ、日頃は見ないような魚やエビを見るのが楽しみだった。今の温暖化の時代と違って、昭和40年ごろでもワンドの池が凍って諏訪湖の御神渡りさながらに割れて盛り上がる光景も何度かみた。また今でもそうだが、午前8時ごろになると、旧淀川から「コウモン」を通過して、何隻も砂利採集船が上って行き、午後には仕事を終えて砂を満載し、水面すれすれに船体を沈めて下っていく。

三輪先生写真1.jpg
(写真1)毛馬閘門下流の大川で停泊する砂採取船

 「コウモン」とは「肛門」。そう思っていた本当の意味がわかり、また「ワンド」がどれほど大事なものであるかを知ったのは、大学に入って水資源工学研究室に所属し、末石冨太郎先生のもとで学ぶようになってからだった。幼少の頃からの体験の断片が一気にモザイク画のように意味ある理解の対象となった。
 自宅から下流、堤防を歩いて半時間ほど下ったところに、まっすぐに大阪湾にそそぐ新淀川から、南に分流して、旧淀川が大阪都心を流れていく。そこにあるのが「毛馬閘門」である。

三輪先生写真2.jpg
(写真2)毛馬閘門


☆2☆
 大阪市北区と都島区の境にある淀川河川公園長柄河畔地区は、新淀川から旧淀川(大川)が分岐する位置にある。昭和49年(1974)に新造された「淀川大堰」と「毛馬閘門」があり、旧淀川に流れ込む水量を調節し、船運の便を図っている。

三輪先生写真3.jpg
(写真3)大川からみる現在の毛馬閘門

三輪先生写真4.jpg
(写真4)新淀川の淀川大堰、手前は大川への分岐

 明治時代に大規模な洪水が相次ぎ、甚大な被害を及ぼしたため、政府は淀川の大改修工事に明治29年(1896)着手。大川が毛馬で中之島に向け、南に大きく折れる位置から直線的に大阪湾に注ぐ新淀川を開削(16㎞)し、その一環として、明治40年(1974)に毛馬閘門、同43年(1910)に洗堰が建設された。当時の旧第一閘門と旧洗堰が平成20年に国の重要文化財「淀川旧分流施設」に指定され、現在もその地で保存されている。

三輪先生写真5.jpg
(写真5)保存されている旧毛馬閘門

 桜の木々でうっそうとした公園には、当時の大改修を記念する、高くそびえたつ「淀川改修紀功碑」を中心に当時の大改修を行う時の工事基準面を示す「旧毛馬基標」や、大改修に尽力した銅像「工学博士沖野忠雄君之像」がある。開削時に方々から掘り出されたお地蔵様方をお祀りする「毛馬北向地蔵」の社もあり、また、元和6年(1620)年以降の大阪城再築の時に、廃城京都伏見城から運んだ城石を誤って運搬船から落としてしまった「残念石」も大改修時に引き上げられて、それらが石庭のように点在し置かれている。
 当時のレンガ造りの閘門は使命を終えるまでの70年間、水位差のある新旧の淀川の往来を見守り、助けてきた。大川から遡上しようとする船を閘門は受け入れて、背後の扉を閉めると水位を上げて、新淀川と同じ水位になれば上流側の扉を開く。新淀川から大川に下るときもまた同じ。緩やかな水の流れのように緩やかに時が流れていく。何もかもがスピードを追求する世の中で、新閘門になって幾分かはその工程が早くはなったものの、毎日、数台の砂採取船がゆったりと往来し、かつてとほとんど変わりなく毎日朝に夕にと開閉が行われている。
 芭蕉や一茶と並び称される与謝蕪村(1716~1784)の生地もこの場所(摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町))で、堤防の上には蕪村の「春風や堤長うして家遠し」を刻んだ蕪村生誕地を示す記念碑がある。また淀川河川公園と隣接して蕪村公園が併設されており、晩年の作である「春風馬堤曲」の俳句が刻まれた自然石を点在させている。蕪村は20歳ごろに上京するまでこの地で過ごした。62歳の時に門人に宛てた手紙で『余、幼童之時、春色清和の日には、必友どちと此堤上にのぼりて遊び候』と記しており、ゆったりと流れる大川を友達と眺める蕪村の姿が浮かぶ。
 大改修を人間に迫るほど、時として大きな災難をもたらした淀川であるが、大半の時代、多くの人々に安らぎと豊富な恵みを与えて来たのも淀川である。

☆3☆
 淀川は、度重さなる氾濫を繰り返し、洪水のたびに周辺地域に甚大な被害をもたらしてきた。
 そこで明治30年(1897)から43年(1910)にかけて、淀川の改修工事が行われた。新淀川(摂津市-津屋~大阪湾河口)が開削され、新淀川と旧淀川(大川)の水量調整、ならびに大川への土砂堆積防止のため明治43年(1910)に毛馬洗堰が建設された。
 淀川は、琵琶湖からの瀬田川・宇治川、京都からの桂川・鴨川、奈良県からの木津川が合流して大阪で淀川になる。利根川が16,840㎢で日本一広く流域内人口は約1,280万人に達する。淀川水系は流域面積こそ8,240㎢と全国第7位(利根、石狩、信濃、北上、木曽、十勝川に次ぐ)ではあるが、市街化面積が約1,500㎢、流域内人口が約1,179万人と、流域内人口密度でみると日本一ということになる。奔放に流れる淀川はじめ多くの府下の川を堤防内に押し込めることで、経済、人口を集中させてきた。
 慶応4年(1868)に海外へと開かれた大阪港は、商都への飛躍をはかるために大型汽船の出入りが必須であったが、自然の河口を利用した河川港であり、河口の土砂堆積に悩まされていた。天然の良港である神戸港が経済を引き付ける中で、国際貿易のできる近代港湾の建設が求められた。
 河川工学を学ぶものなら誰もが知るオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケ(1842―1913)が港湾計画を依頼され、明治20年(1887)に計画を作成。当初は築港の計画を依頼されたのだが、当時、測量といっても移動手段が乏しい中で、彼は淀川を流域として俯瞰的に捉えていた。淀川河口に直進させる放水路(新淀川)の開削による土砂の排除、中流域ではケレップ水制を用いた流路の蛇行と流路幅の制御による舟運の確保、さらに上流に遡り琵琶湖に流入する河川の砂防堰堤建設や植林事業。この流域全体を俯瞰的に見る考え方が、全国の主要河川にと後に広げられることになった。しかし、財政的にも制度的にも厳しく、明治29年(1896)の河川法の制定を待たねばならなかった。
 明治時代、大阪は再々、淀川の決壊で多大な水害に苦しめられてきた。明治18年(1885)には枚方の堤防が決壊し、大阪市内では上町台地を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人に上った。デ・レーケが流域全体を見ての計画を立てたのもこの未曾有の災害によるものであったろう。しかもそれが日本の国土、河川の骨格の整備につながり、近代日本の発展の基礎を作ったといえるだろう。
 明治30年(1897)に築港開始。デ・レーケの案を下地として明治27年(1894)、大阪土木監督所長・沖野忠雄(1854-1921)が内務省へ提出した淀川の洪水防御計画が、国直轄の淀川改良工事(明治30〜43年)となり、沖野の指揮のもと、工事が完了した。
 現在、沖野忠雄は銅像として、毛馬閘門の傍らの堤防の上に立ち、淀川の遥か上流を見続けている。

☆4☆
 昭和の時代にも、淀川流域では支流も含め、14回水害が発生し、平成27年(2015)の桂川の氾濫は記憶に新しい。今年、台風15号、19号と東日本で発生した甚大な水害は多くの人命を奪い、多大な損失をもたらした。亡くなられた方々のご冥福を祈り、被災された方々の一日も早い復興を祈念するばかりである。一方、川との関わりが薄くなる中に、淀川こそは決壊しないと信じ、豊かな生活を安穏と享受する今日、今一度、生活者としても自身を見直さねばと思うこの頃である。(2019.11.11)

(参考文献)
1)淀川百年史編纂委員会、「淀川百年史」、建設省近畿地方建設局、1974年
2)松浦茂樹、「明治の淀川改修計画 デレーケから沖野忠雄ヘ」、土木学会論文集 第425号/IV-14 、1991年1月
3)国土交通省淀川河川事務所、「100年前の大洪水と新しい川の誕生」、
https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/tanjyou.html(2019.11.01閲覧)
4)関西・大阪21世紀協会、「なにわ大坂をつくった100人:第6話 与謝蕪村」
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/006.html(2019.11.01閲覧)
posted by 水資源・環境学会広報委員会 at 00:00Comment(0)日記

国際コモンズ学会に参加して

原田禎夫(大阪商業大学公共学部)


今年7月1日から5日にかけて、ペルーの首都、リマのペルー・カトリカ大学(PUCP: Pontificia Universidad Católica del Perú)を会場に、第17回国際コモンズ学会が開催された。大変遅くなったが、この大会に参加したレポートをお届けしたいと思う。

国際コモンズ学会(The International Association for the Study of the Commons (IASC))は、2009年のノーベル経済学賞を受賞した故E.Ostromらによって1989年に設立された。国際学会は2年に一度開催されており、2013年には日本の山梨県北富士地域でも開催されている。

国際コモンズ学会ウェブサイト(英語)https://iasc-commons.org

さて、開催地のペルーの首都リマに向かうため、G20大阪サミットで厳戒態勢の関西空港を出発したのが6月29日の夕刻であった。

ずらりとならんだ各国の政府専用機を眺めながらの離陸は、航空ファンの筆者にとっては楽しい経験でもあった。下の写真は出発待ちの機内から撮影したものであるが、左はエジプト、右の2機はトルコの政府専用機である。

IMG_5899.jpeg
写真1 出発待ちの機内から。左はエジプト、右の2機はトルコの政府専用機である。


出発直前に体調を崩してしまっていたこともあり、機内では寝てばかりいたが、それでもロサンゼルスを経由して30時間のリマまでのフライトは、文字通り「遠くへ来たなあ」というものであった。

IMG_6018.jpeg
写真2 リマの旧市街の街並み。


日本と季節は逆で秋に向かうとはいえ、赤道に近いリマである。しかし、南極からの冷たい海流が流れており、夜などは晩秋のような厚手の上着が必要だったのは思いもよらないことであった。

学会中、エクスカーションで海辺へと出かけた友人によると、海水温は15度程度であり、ペンギンが生息しているのも納得した、ということであった。

さて、今回の学会でも、伝統的なコモンズ論、すなわち日本でいうところの入会(いりあい)のような共同的な資源管理に関する話題はもちろんのこと、気候変動や海洋プラスチック汚染、都市のコモンズといった現代的な課題も多く取り上げられていた。

IMG_5945.jpeg
写真3 国際コモンズ学会での基調講演。海洋の環境保全の話題ではプラスチックごみも話題にあがっていた。

中でも、印象的だった議論のひとつが、ドローンによる空間利用である。

筆者が参加したテクノロジーとコモンズに関するセッションでは、まさにその問題が議論されていた。かつて、人の支配のおよぶ空間は、当然ながら我々の生活空間である地上だけであった。それが航空機の登場により国家の支配する「領空」という概念が生まれ、さらには宇宙空間をどう考えるのか、ということが歴史的に議論されてきた。

では、ドローンの飛行する空間を我々はどう考えたらいいのだろう。

ドローンが飛行する中低空は、現代ではいうまでもなく国家の主権のおよぶ「領空」である。が、個人や企業などの間の関係性において、果たしてそれはどうであろうか。たとえばみなさんの自宅の上を誰かが勝手にドローンを飛ばしたとして、それははたして「不法侵入」といえるのか?を考えると分かりやすいだろうか。

この問題は、まだまだ議論が深まっていない分野でもある。たとえば日本国内においては、ドローンの操縦に特に公的な免許は必要ではない。民間が提供している操縦士の研修やライセンスもあるにはあるが、法的にそれが必要とされるものでもなければ、国家資格でもない。また、重さ3kg以上のドローンについては、人口密集地など特定の地域は航空法の規制対象とされているが、それでも届出によりドローンを飛ばすことは誰でもできる。3kg以下のいわゆるトイ・ドローンについては何の規制も受けない。

我々研究者が、なんらかの研究目的でドローンを飛ばすにせよ、それは一体「誰」の「許可」が必要で、そもそもどのくらいの高度までそれが求められるのか、実はその議論はまだまだ十分ではない。つまり、ドローンの登場によって、新しい「共的な空間」が突然我々の社会に現れたのである。

最近、サウジアラビアの石油精製施設が何者かによりドローンで攻撃され、同国は原油産出能力の半分を失った。わずか数百万円と推定されるドローンが、何百億円もかかる迎撃ミサイルや戦闘機による防衛システムをまったく機能させることなく、精密に誘導され爆撃に成功したことは、世界に大きな衝撃を与えた。

技術の進歩により、誰でもが簡単に「中低空」という空間を自分のもののように利用できる時代が幕を開けたのである。この空間を、誰がどのように管理すべきなのだろうか。コモンズ論はよく「古くて新しい問題」だと例えられるが、果たしてこの共的な空間の管理に、我々はこれまでの先達の知見をどう活かすことができるのだろう、と考えさせられたセッションであった。

さて、今回の国際コモンズ学会に参加して、筆者は現代のテクノロジーの恩恵も受けた。リマでは、配車アプリ「Uber」が広く普及しており、ホテルから大学までの移動も、日本人研究者のみなさんとUberを利用したが、スペイン語がまったくわからない中でも安心して(そして安く)利用できるとみなさんも喜ばれていた。

ところが、好事魔多しである。自身が報告する(そして座長をつとめる)セッションに向かう朝、Uberで呼んだタクシーがなかなか来ず、会場入りがギリギリとなってしまった。しかし、大慌てで車を降りたのがいけなかった。ふと気づけば、財布がない!治安があまりよくないといわれるペルーである、普通ならここで諦めるしかないのだが・・・。

しかし、Uberはこうした時にもちゃんと対応策が用意されている。スマホのアプリからドライバーに直接電話できるのである。ただ、ここでもう一つ問題発生である。肝心のドライバーに連絡するための方法が記されたサイトはスペイン語版しかないのである。

そこでアプリではなく、ブラウザで同社のサイトにアクセスし、自動翻訳の力を借りてなんとか電話をかけることに成功したのだが、今度はドライバー氏が「ごめん、英語は苦手なんだ」と。とりあえず、何度かのやり取りの後、何かを車の中に忘れたらしい、ということは伝わったようで「あったぞ!」というようなことを、スペイン語で言っているようである。

たまたま近くにいた、学会の運営補助にあたっている現地の学生さんたちに通訳の助けを求めると、快く電話を代わってくれ、「財布があったから、ドライバーさんが届けてくれるそうですよ!」とのことである。待つことしばし、財布をドライバー氏が届けてくれ、手もとに戻ってきた。

ちなみに、タクシー車内での忘れ物が見つかってドライバーが届けてくれた場合、チップをシステム上で支払う必要がある。一方、ドライバーが忘れ物を盗んでしまった場合には、逆にドライバーが大きなペナルティを受けることになっている。そしてそもそも、ドライバーと乗客の相互が評価を受ける仕組みになっている。

世界各地で既存のタクシーとUberのような配車アプリサービスとの間で、トラブルも相次いでいるが、ただ便利で安いというだけではなく、こうした安心という無形のサービスも、Uber躍進のポイントの一つだろうと実感した。

IMG_5984.jpeg
写真4 キックボードシェアリング。スマホで解錠し、どこでも乗り捨て可能。


また、リマ市内ではキックボードのシェアリングサービスを利用する人も多く見かけた。アメリカの都市部で始まったサービスであるが、自転車のシェアリングサービスのように、駐輪場の整備が不要な上に、気軽に使えることもあって、若い人を中心に普及しているようであった。

最後に、筆者自身が取り組んでいるプラスチックごみ問題についても触れておきたい。

今回の学会でも基調講演をはじめ、海洋プラスチックごみ問題に関する研究も多くみられたが、ペルーの町もまた脱プラスチックの取り組みが急速に進んでいることがうかがえた。

IMG_6022.jpeg
写真5 バナナの葉でラップされたホウレンソウ。


たとえば、この写真は、スーパーの野菜売り場である。ホウレンソウの小パックはバナナの葉をラップの代用品として使っていた。正確にいうと、昔はバナナの葉が使われていたところにプラスチック袋が登場したので、元に戻ったというだけであるが。

IMG_5953.jpeg
写真6 使い捨てプラスチックを使わない学会のランチ


学会のランチもご覧の通り、再生紙製の容器にガラスのコップである。使い捨てプラスチックは可能な限り排除されていた。

IMG_6064.jpeg
写真7 リマ空港の売店でもエコバッグの使用を呼びかけるポップが掲げられていた。

使い捨てプラスチック使用量がアメリカについで世界第2位の日本、このままでは脱プラスチックの世界的な流れに取り残されてしまうのではないかと感じる場面も多かった。

IMG_5981.jpeg
写真8 飲食店が並ぶリマの裏通り


人々は陽気で親切で、食事も美味しく、歴史的にも日本との関係も深いこともあるからか、初めての南米ではあったがどこか懐かしい感じもする旅であった。

次回の国際コモンズ学会は2年後、2020年に米アリゾナ州立大学で開催される。学問分野を超えてさまざまな分野の研究者が一堂に会する珍しい学会でもある。ぜひ、みなさんも参加されてみてはどうだろう。
posted by 水資源・環境学会広報委員会 at 07:07Comment(0)日記