淀川のほとりで暮らして思う事

大阪学院大学国際学部 三輪信哉

☆1☆
 私事で恐縮である。私は生まれてからこの方、琉球大学にいた20代から30代の10年を除き、淀川左岸沿いの大阪市の赤川という町に住んでいる。
 祖父が大正時代に岐阜の山奥から出てきてこの地に工場を構えて100年が過ぎようとしている。振り返って見れば、私の人生の日常の大半は淀川とともにある、といってもよいかもしれない。
 祖父がこの地に居を定めたのは、当時周辺は水田だらけで、淀川の支流の小川がそこここにあり、土地が安く、水を利用した工場を営むためであった。戦前は南方で使う蚊帳の生地の晒し業で大いに成功したようである。戦後も水を利用しての金属メッキに仕事を変え、周辺の小川に廃液を流してもいた。メッキに使う重金属の濃度を味で見る、という今からは想像もつかないありようで、祖父が65歳で食道癌で亡くなったのも無理はない。
 私の幼少の昭和30年代には工場はやめていたが、淀川は私の絶好の遊び場だった。まだ小学校に上がる前、淀川で溺れ掛けてずぶ濡れになって家に帰った記憶がある。台風が来たときには川幅600メートル一杯が濁流と化し、堤防すれすれまで増水し家の屋根が流されてくる様を何度も見た。当然川の水面が家屋の地面よりはるかに高くなり、庭のあちこちからシュウシュウと音を立てて水が吹きだし、上流の氾濫で床下浸水を何度も経験した。そのような濁流もやがて水位を下げると、葦原の根元をぬって透き通った水が流れ、日頃は見ないような魚やエビを見るのが楽しみだった。今の温暖化の時代と違って、昭和40年ごろでもワンドの池が凍って諏訪湖の御神渡りさながらに割れて盛り上がる光景も何度かみた。また今でもそうだが、午前8時ごろになると、旧淀川から「コウモン」を通過して、何隻も砂利採集船が上って行き、午後には仕事を終えて砂を満載し、水面すれすれに船体を沈めて下っていく。

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(写真1)毛馬閘門下流の大川で停泊する砂採取船

 「コウモン」とは「肛門」。そう思っていた本当の意味がわかり、また「ワンド」がどれほど大事なものであるかを知ったのは、大学に入って水資源工学研究室に所属し、末石冨太郎先生のもとで学ぶようになってからだった。幼少の頃からの体験の断片が一気にモザイク画のように意味ある理解の対象となった。
 自宅から下流、堤防を歩いて半時間ほど下ったところに、まっすぐに大阪湾にそそぐ新淀川から、南に分流して、旧淀川が大阪都心を流れていく。そこにあるのが「毛馬閘門」である。

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(写真2)毛馬閘門


☆2☆
 大阪市北区と都島区の境にある淀川河川公園長柄河畔地区は、新淀川から旧淀川(大川)が分岐する位置にある。昭和49年(1974)に新造された「淀川大堰」と「毛馬閘門」があり、旧淀川に流れ込む水量を調節し、船運の便を図っている。

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(写真3)大川からみる現在の毛馬閘門

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(写真4)新淀川の淀川大堰、手前は大川への分岐

 明治時代に大規模な洪水が相次ぎ、甚大な被害を及ぼしたため、政府は淀川の大改修工事に明治29年(1896)着手。大川が毛馬で中之島に向け、南に大きく折れる位置から直線的に大阪湾に注ぐ新淀川を開削(16㎞)し、その一環として、明治40年(1974)に毛馬閘門、同43年(1910)に洗堰が建設された。当時の旧第一閘門と旧洗堰が平成20年に国の重要文化財「淀川旧分流施設」に指定され、現在もその地で保存されている。

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(写真5)保存されている旧毛馬閘門

 桜の木々でうっそうとした公園には、当時の大改修を記念する、高くそびえたつ「淀川改修紀功碑」を中心に当時の大改修を行う時の工事基準面を示す「旧毛馬基標」や、大改修に尽力した銅像「工学博士沖野忠雄君之像」がある。開削時に方々から掘り出されたお地蔵様方をお祀りする「毛馬北向地蔵」の社もあり、また、元和6年(1620)年以降の大阪城再築の時に、廃城京都伏見城から運んだ城石を誤って運搬船から落としてしまった「残念石」も大改修時に引き上げられて、それらが石庭のように点在し置かれている。
 当時のレンガ造りの閘門は使命を終えるまでの70年間、水位差のある新旧の淀川の往来を見守り、助けてきた。大川から遡上しようとする船を閘門は受け入れて、背後の扉を閉めると水位を上げて、新淀川と同じ水位になれば上流側の扉を開く。新淀川から大川に下るときもまた同じ。緩やかな水の流れのように緩やかに時が流れていく。何もかもがスピードを追求する世の中で、新閘門になって幾分かはその工程が早くはなったものの、毎日、数台の砂採取船がゆったりと往来し、かつてとほとんど変わりなく毎日朝に夕にと開閉が行われている。
 芭蕉や一茶と並び称される与謝蕪村(1716~1784)の生地もこの場所(摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町))で、堤防の上には蕪村の「春風や堤長うして家遠し」を刻んだ蕪村生誕地を示す記念碑がある。また淀川河川公園と隣接して蕪村公園が併設されており、晩年の作である「春風馬堤曲」の俳句が刻まれた自然石を点在させている。蕪村は20歳ごろに上京するまでこの地で過ごした。62歳の時に門人に宛てた手紙で『余、幼童之時、春色清和の日には、必友どちと此堤上にのぼりて遊び候』と記しており、ゆったりと流れる大川を友達と眺める蕪村の姿が浮かぶ。
 大改修を人間に迫るほど、時として大きな災難をもたらした淀川であるが、大半の時代、多くの人々に安らぎと豊富な恵みを与えて来たのも淀川である。

☆3☆
 淀川は、度重さなる氾濫を繰り返し、洪水のたびに周辺地域に甚大な被害をもたらしてきた。
 そこで明治30年(1897)から43年(1910)にかけて、淀川の改修工事が行われた。新淀川(摂津市-津屋~大阪湾河口)が開削され、新淀川と旧淀川(大川)の水量調整、ならびに大川への土砂堆積防止のため明治43年(1910)に毛馬洗堰が建設された。
 淀川は、琵琶湖からの瀬田川・宇治川、京都からの桂川・鴨川、奈良県からの木津川が合流して大阪で淀川になる。利根川が16,840㎢で日本一広く流域内人口は約1,280万人に達する。淀川水系は流域面積こそ8,240㎢と全国第7位(利根、石狩、信濃、北上、木曽、十勝川に次ぐ)ではあるが、市街化面積が約1,500㎢、流域内人口が約1,179万人と、流域内人口密度でみると日本一ということになる。奔放に流れる淀川はじめ多くの府下の川を堤防内に押し込めることで、経済、人口を集中させてきた。
 慶応4年(1868)に海外へと開かれた大阪港は、商都への飛躍をはかるために大型汽船の出入りが必須であったが、自然の河口を利用した河川港であり、河口の土砂堆積に悩まされていた。天然の良港である神戸港が経済を引き付ける中で、国際貿易のできる近代港湾の建設が求められた。
 河川工学を学ぶものなら誰もが知るオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケ(1842―1913)が港湾計画を依頼され、明治20年(1887)に計画を作成。当初は築港の計画を依頼されたのだが、当時、測量といっても移動手段が乏しい中で、彼は淀川を流域として俯瞰的に捉えていた。淀川河口に直進させる放水路(新淀川)の開削による土砂の排除、中流域ではケレップ水制を用いた流路の蛇行と流路幅の制御による舟運の確保、さらに上流に遡り琵琶湖に流入する河川の砂防堰堤建設や植林事業。この流域全体を俯瞰的に見る考え方が、全国の主要河川にと後に広げられることになった。しかし、財政的にも制度的にも厳しく、明治29年(1896)の河川法の制定を待たねばならなかった。
 明治時代、大阪は再々、淀川の決壊で多大な水害に苦しめられてきた。明治18年(1885)には枚方の堤防が決壊し、大阪市内では上町台地を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人に上った。デ・レーケが流域全体を見ての計画を立てたのもこの未曾有の災害によるものであったろう。しかもそれが日本の国土、河川の骨格の整備につながり、近代日本の発展の基礎を作ったといえるだろう。
 明治30年(1897)に築港開始。デ・レーケの案を下地として明治27年(1894)、大阪土木監督所長・沖野忠雄(1854-1921)が内務省へ提出した淀川の洪水防御計画が、国直轄の淀川改良工事(明治30〜43年)となり、沖野の指揮のもと、工事が完了した。
 現在、沖野忠雄は銅像として、毛馬閘門の傍らの堤防の上に立ち、淀川の遥か上流を見続けている。

☆4☆
 昭和の時代にも、淀川流域では支流も含め、14回水害が発生し、平成27年(2015)の桂川の氾濫は記憶に新しい。今年、台風15号、19号と東日本で発生した甚大な水害は多くの人命を奪い、多大な損失をもたらした。亡くなられた方々のご冥福を祈り、被災された方々の一日も早い復興を祈念するばかりである。一方、川との関わりが薄くなる中に、淀川こそは決壊しないと信じ、豊かな生活を安穏と享受する今日、今一度、生活者としても自身を見直さねばと思うこの頃である。(2019.11.11)

(参考文献)
1)淀川百年史編纂委員会、「淀川百年史」、建設省近畿地方建設局、1974年
2)松浦茂樹、「明治の淀川改修計画 デレーケから沖野忠雄ヘ」、土木学会論文集 第425号/IV-14 、1991年1月
3)国土交通省淀川河川事務所、「100年前の大洪水と新しい川の誕生」、
https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/tanjyou.html(2019.11.01閲覧)
4)関西・大阪21世紀協会、「なにわ大坂をつくった100人:第6話 与謝蕪村」
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/006.html(2019.11.01閲覧)

国際コモンズ学会に参加して

原田禎夫(大阪商業大学公共学部)


今年7月1日から5日にかけて、ペルーの首都、リマのペルー・カトリカ大学(PUCP: Pontificia Universidad Católica del Perú)を会場に、第17回国際コモンズ学会が開催された。大変遅くなったが、この大会に参加したレポートをお届けしたいと思う。

国際コモンズ学会(The International Association for the Study of the Commons (IASC))は、2009年のノーベル経済学賞を受賞した故E.Ostromらによって1989年に設立された。国際学会は2年に一度開催されており、2013年には日本の山梨県北富士地域でも開催されている。

国際コモンズ学会ウェブサイト(英語)https://iasc-commons.org

さて、開催地のペルーの首都リマに向かうため、G20大阪サミットで厳戒態勢の関西空港を出発したのが6月29日の夕刻であった。

ずらりとならんだ各国の政府専用機を眺めながらの離陸は、航空ファンの筆者にとっては楽しい経験でもあった。下の写真は出発待ちの機内から撮影したものであるが、左はエジプト、右の2機はトルコの政府専用機である。

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写真1 出発待ちの機内から。左はエジプト、右の2機はトルコの政府専用機である。


出発直前に体調を崩してしまっていたこともあり、機内では寝てばかりいたが、それでもロサンゼルスを経由して30時間のリマまでのフライトは、文字通り「遠くへ来たなあ」というものであった。

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写真2 リマの旧市街の街並み。


日本と季節は逆で秋に向かうとはいえ、赤道に近いリマである。しかし、南極からの冷たい海流が流れており、夜などは晩秋のような厚手の上着が必要だったのは思いもよらないことであった。

学会中、エクスカーションで海辺へと出かけた友人によると、海水温は15度程度であり、ペンギンが生息しているのも納得した、ということであった。

さて、今回の学会でも、伝統的なコモンズ論、すなわち日本でいうところの入会(いりあい)のような共同的な資源管理に関する話題はもちろんのこと、気候変動や海洋プラスチック汚染、都市のコモンズといった現代的な課題も多く取り上げられていた。

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写真3 国際コモンズ学会での基調講演。海洋の環境保全の話題ではプラスチックごみも話題にあがっていた。

中でも、印象的だった議論のひとつが、ドローンによる空間利用である。

筆者が参加したテクノロジーとコモンズに関するセッションでは、まさにその問題が議論されていた。かつて、人の支配のおよぶ空間は、当然ながら我々の生活空間である地上だけであった。それが航空機の登場により国家の支配する「領空」という概念が生まれ、さらには宇宙空間をどう考えるのか、ということが歴史的に議論されてきた。

では、ドローンの飛行する空間を我々はどう考えたらいいのだろう。

ドローンが飛行する中低空は、現代ではいうまでもなく国家の主権のおよぶ「領空」である。が、個人や企業などの間の関係性において、果たしてそれはどうであろうか。たとえばみなさんの自宅の上を誰かが勝手にドローンを飛ばしたとして、それははたして「不法侵入」といえるのか?を考えると分かりやすいだろうか。

この問題は、まだまだ議論が深まっていない分野でもある。たとえば日本国内においては、ドローンの操縦に特に公的な免許は必要ではない。民間が提供している操縦士の研修やライセンスもあるにはあるが、法的にそれが必要とされるものでもなければ、国家資格でもない。また、重さ3kg以上のドローンについては、人口密集地など特定の地域は航空法の規制対象とされているが、それでも届出によりドローンを飛ばすことは誰でもできる。3kg以下のいわゆるトイ・ドローンについては何の規制も受けない。

我々研究者が、なんらかの研究目的でドローンを飛ばすにせよ、それは一体「誰」の「許可」が必要で、そもそもどのくらいの高度までそれが求められるのか、実はその議論はまだまだ十分ではない。つまり、ドローンの登場によって、新しい「共的な空間」が突然我々の社会に現れたのである。

最近、サウジアラビアの石油精製施設が何者かによりドローンで攻撃され、同国は原油産出能力の半分を失った。わずか数百万円と推定されるドローンが、何百億円もかかる迎撃ミサイルや戦闘機による防衛システムをまったく機能させることなく、精密に誘導され爆撃に成功したことは、世界に大きな衝撃を与えた。

技術の進歩により、誰でもが簡単に「中低空」という空間を自分のもののように利用できる時代が幕を開けたのである。この空間を、誰がどのように管理すべきなのだろうか。コモンズ論はよく「古くて新しい問題」だと例えられるが、果たしてこの共的な空間の管理に、我々はこれまでの先達の知見をどう活かすことができるのだろう、と考えさせられたセッションであった。

さて、今回の国際コモンズ学会に参加して、筆者は現代のテクノロジーの恩恵も受けた。リマでは、配車アプリ「Uber」が広く普及しており、ホテルから大学までの移動も、日本人研究者のみなさんとUberを利用したが、スペイン語がまったくわからない中でも安心して(そして安く)利用できるとみなさんも喜ばれていた。

ところが、好事魔多しである。自身が報告する(そして座長をつとめる)セッションに向かう朝、Uberで呼んだタクシーがなかなか来ず、会場入りがギリギリとなってしまった。しかし、大慌てで車を降りたのがいけなかった。ふと気づけば、財布がない!治安があまりよくないといわれるペルーである、普通ならここで諦めるしかないのだが・・・。

しかし、Uberはこうした時にもちゃんと対応策が用意されている。スマホのアプリからドライバーに直接電話できるのである。ただ、ここでもう一つ問題発生である。肝心のドライバーに連絡するための方法が記されたサイトはスペイン語版しかないのである。

そこでアプリではなく、ブラウザで同社のサイトにアクセスし、自動翻訳の力を借りてなんとか電話をかけることに成功したのだが、今度はドライバー氏が「ごめん、英語は苦手なんだ」と。とりあえず、何度かのやり取りの後、何かを車の中に忘れたらしい、ということは伝わったようで「あったぞ!」というようなことを、スペイン語で言っているようである。

たまたま近くにいた、学会の運営補助にあたっている現地の学生さんたちに通訳の助けを求めると、快く電話を代わってくれ、「財布があったから、ドライバーさんが届けてくれるそうですよ!」とのことである。待つことしばし、財布をドライバー氏が届けてくれ、手もとに戻ってきた。

ちなみに、タクシー車内での忘れ物が見つかってドライバーが届けてくれた場合、チップをシステム上で支払う必要がある。一方、ドライバーが忘れ物を盗んでしまった場合には、逆にドライバーが大きなペナルティを受けることになっている。そしてそもそも、ドライバーと乗客の相互が評価を受ける仕組みになっている。

世界各地で既存のタクシーとUberのような配車アプリサービスとの間で、トラブルも相次いでいるが、ただ便利で安いというだけではなく、こうした安心という無形のサービスも、Uber躍進のポイントの一つだろうと実感した。

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写真4 キックボードシェアリング。スマホで解錠し、どこでも乗り捨て可能。


また、リマ市内ではキックボードのシェアリングサービスを利用する人も多く見かけた。アメリカの都市部で始まったサービスであるが、自転車のシェアリングサービスのように、駐輪場の整備が不要な上に、気軽に使えることもあって、若い人を中心に普及しているようであった。

最後に、筆者自身が取り組んでいるプラスチックごみ問題についても触れておきたい。

今回の学会でも基調講演をはじめ、海洋プラスチックごみ問題に関する研究も多くみられたが、ペルーの町もまた脱プラスチックの取り組みが急速に進んでいることがうかがえた。

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写真5 バナナの葉でラップされたホウレンソウ。


たとえば、この写真は、スーパーの野菜売り場である。ホウレンソウの小パックはバナナの葉をラップの代用品として使っていた。正確にいうと、昔はバナナの葉が使われていたところにプラスチック袋が登場したので、元に戻ったというだけであるが。

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写真6 使い捨てプラスチックを使わない学会のランチ


学会のランチもご覧の通り、再生紙製の容器にガラスのコップである。使い捨てプラスチックは可能な限り排除されていた。

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写真7 リマ空港の売店でもエコバッグの使用を呼びかけるポップが掲げられていた。

使い捨てプラスチック使用量がアメリカについで世界第2位の日本、このままでは脱プラスチックの世界的な流れに取り残されてしまうのではないかと感じる場面も多かった。

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写真8 飲食店が並ぶリマの裏通り


人々は陽気で親切で、食事も美味しく、歴史的にも日本との関係も深いこともあるからか、初めての南米ではあったがどこか懐かしい感じもする旅であった。

次回の国際コモンズ学会は2年後、2020年に米アリゾナ州立大学で開催される。学問分野を超えてさまざまな分野の研究者が一堂に会する珍しい学会でもある。ぜひ、みなさんも参加されてみてはどうだろう。
posted by 水資源・環境学会広報委員会 at 07:07Comment(0)日記

水資源需給の厳しいシンガポールで感じた「システム」

水資源・環境学会 理事 渡邉紹裕
(熊本大学特任教授・京都大学名誉教授)

 シンガポールでは、平均年降水量は2,500mm程度もあって日本よりかなり多いが、人口1人当たりの水資源量にすると、リビアやヨルダンなどといった乾燥地域の国並みで、適当な貯水池もなく、水資源の需給バランスは厳しい。現在でも水供給の約2割を隣国マレーシアからの「購入」に依存し、また下水の処理水に約4割を依存する厳しい事情はよく知られるところである。一方で、ニューウォーター(NEWater)と呼ばれ飲料水などにも利用される下水の「再生水」の処理技術や、毎年のSingapore International Water Weekの開催など、水に関する技術や関心のレベルの高さもよく知られている。
 近年話題となっている屋上プールとそこからの眺望が話題となった高層ホテルが建設されたのは、シンガポールのマリーナ・ベイ・エリアと呼ばれる地区であるが、その近くのいくつかの河川が合流した河口地点にはマリーナ・バラージと呼ばれる堰が建設され、洪水調節の他、河口は淡水湖化されて水需要の約10%を供給する貯水池としても利用されるようになった。この堰は、IWA(国際水協会)やAmerican Academy of Environmental Engineers and Scientists(アメリカ環境技術者および科学者協会)などから、その優秀な技術や業績に対していくつかの賞を受賞している。
 このマリーナ・バラージによって新たに創出された行楽地域GARDENS BY THE BAYに上記のホテルが建設されたが、同じ地区内には環境に関するいくつかの施設やアトラクションが設けられている。その一つがCLOUD FORESTという施設で、この夏に、現地に詳しく、また私の関心も熟知している人に連れられて見学する機会を得た。シンガポールの「水問題」は横において、ここでは、このCLOUD FOREST で考えたことを紹介させて頂こう。
 CLOUD FOREST は、cloud forest(雲霧林=うんむりん)という熱帯・亜熱帯の山地において雲や霧が発生して湿度が高くなる条件のもとで発達する常緑樹林を、再現したテーマパークである。雲霧林は多雨林の一つで、インドネシア周辺、アフリカや南米アンデス山脈など熱帯域に多く広がっている。比較的限られた標高範囲の山地に発達し、日射量が少なくなることで、樹木は高くはならないものの枝分かれが多くなる。また、高湿度のために湿度が高いために、土壌に根を下ろさないで他の樹木や岩盤などに根を張る着生植物や、胞子によって増えるシダ植物が普通の多雨林より多くなる。これらは、今回、実際の植物とその高度分布を見ながら改めて学んだことでもある。

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写真1 シンガポールGARDENS BY THE BAYのCLOUD FOREST
(左側のドーム)


 シンガポールのCLOUD FORESTはドーム型の植物園で、ドーム内に雲霧林を再現している。20ドル(約1,570円)を払って入場すると、冷房が効いた入口で、いきなり人工の山から流れ落ちる高さ35mの滝に迎えられる。この滝は、降った雨や凝結した水滴が流出して、場合によっては滝となって流下するという、雲霧林における水循環を象徴するものとして設けられているものである。と、後で、園内を歩いていくうちに分かった。自然の滝が見られないシンガポールでは珍しく、いろいろな施設に置かれた噴水や室内の人工滝と同じように、水に接する嬉しさからか、世界各国から来たと思われる来園者も、まずその滝の前で楽しそうに熱心に写真を撮り姿が印象的だった。しかし、上記の「滝の意味」を感じる人はまずいない感じだった。

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写真2 CLOUD FOREST 入口の滝(35m)


その後、約30mをエレベーターで昇り、標高2,000m程度のところの植生・樹木からスタートし、人工の山を、標高に応じた植生・樹木の変化を見ながら少しずつ下ってくるという、回遊のスタイルとなっている。例えば、最上層では厚い葉肉を持つ低い丈の草や食虫植物という、雲霧林の最上層の特徴が理解できるようになっている。途中には、「クラウド・ウォーク」という山から空中に突き出した形の回廊を、ゆっくりと「雲の中」を歩くことを想定しながら、標高に応じた山・樹木の姿を俯瞰できるようにもなっている。また、標高が低くなると、鍾乳石や水晶の展示のある「クリスタル・マウンテン」と呼ばれるスペースがあり、水の流れが生み出す地形・自然を感じ取ることができるようになっている。さらに、途中には、さまざまな色のオーキッド(蘭)類が植えられていて、来園者が足を止めて楽しむ一角も設けられている。

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写真3 クラウド・ウォーク


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写真4 最下層の湿地と植生


 このようにこのCLOUD FORESTでは、気候や水の循環とそれに対応した植物相、そしてさらに動物相も含めての生態系の展示がなされ、個々の植物ではなく「システムの展示」が強く意図されていることを感じた。展示されているものについては、一部で不要と思われる人工物が異常に多かったりするなど、展示方法や技術についてはまだ改善の余地は大きいと思ったが、この「システム」へのこだわりははっきりとしている。出口近くの地下の解説コーナーやミニシアターでは、このシステムが近年危機に晒されていることが簡潔に説明されていて、このガーデンの理念と主張がまとめられている。
 一方で、こうしたシステムの展示やそのコンセプトを感じている入園者はほとんどいないように見受けられた。それぞれの標高毎に展示される個々興味深いものにそれぞれ関心を払って回遊しているようであった。振り返って考えると、日本の植物園などは、植物の「鑑賞」に中心が置かれていて、「システム」を理解することには、さほど関心が払われていないように思える。動物園との連携や共同はほとんど進んではいないのではないか、と疑問が湧いた。シンガポールでは、いわゆる行楽地を訪れる人のかなりが海外からの来訪者であると思われるが、そういう状況の中でも、地域の自然や社会の状況を踏まえて、自然や環境のシステムへのこだわりが見られたのは良い経験となった。
 シンガポールで同じ日に訪れた無料開放している植物園でも同様のことを感じた。人の手が入っていない熱帯雨林をそのまま感じることができるような路で歩けるようになっていた。さらに、川をテーマにしたサファリパークである「リバーサファリ」では、世界の主要河川の状況を展示するとともに、動物園や水族館とも連動していて、流域システムへの関心が高まるようになっている。とくに特徴的だったのは、中国・長江を対象とした展示の一環として、流域に生息するジャイアントパンダが飼育され、じっくりと見られるようになっていたことだった。
 私が、シンガポールの「水システム」に関心があることから、ここで述べたような見方となり、偏っているといわれるかもしれないが、地域の水のシステム、とくに水循環と人間との関係を、どのように整えていくかということに対する国としての考えが、あちらこちらで表れているように思った次第である。シンガポールは、国際的な交通の主要なハブでもあり、訪問・通過の機会も多いと思う。ぜひCLOUD FORESTに立ち寄って頂き、感想や意見を賜りたいところである。
posted by 水資源・環境学会広報委員会 at 11:18Comment(0)日記